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竹馬屋(今日の俳句)

「今日の俳句」を改めました。April 2016
俳句関連のつぶやきのプログになります。
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俳句を楽しむ
「俳句を楽しむ」
   某所での卓話の記録。(赤字が配布したレジメ)


落語で「雑俳」というお噺があります。
例の八つあんがご隠居のもとにやってきまして
八「ちわっ、ご隠居、毎日、家にいて、退屈しません?」
隠「私にも道楽はあってね。俳諧(はいかい)をやってますから。」
八「変わった道楽だね。ハエを飼うの?」
隠「いやいや発句ですよ。」
八「シャツにくっ付いてるヤツ?」
隠「そりゃ留め金のホック。」
八「あっしだって俳諧くらい知ってますよ。『初雪やトンビ転んで河童の屁』ってやつでしょ。」、 といった感じで始まりますが、
この御隠居は「ん、まぁ。俳諧のいいところは老いも若きも老若男女金持ちも貧乏人もみんな平らに付き合えるのがいい」といいます。
 
山口です。国語教師を定年退職して、十年余りになりますが、この御隠居のように俳句を趣味にして毎日句作りに励んでおります。
今日は、芭蕉が「花の雲鐘は上野か浅草か」と詠っている浅草で、俳句のお話しをさせていただきます。
レジメをご覧頂きますと、最後に変な空欄がございますが、今回の企画では「浅草」をみなさんで詠むということを提案いたします。この時間内に一句作ってみることで俳句の楽しさを分かって頂けたらと思います。話を聞きながらこの時間内に一句ひねり出してこの空欄にご記入していただきます。
しかし、こうしてこちらに立ってみますと、思いのほか人生のベテランの方がお集まりで、今更俳句の入門でもないとお思いの方もおられようかと思いますが、人生またまだなごうございます。私の母は 九十三歳で逝きましたが、七十を迎えた頃仕事に暇ができて書道をはじめまして、死ぬ半月前まで筆を執っておりました。楽しみを見つけるのに年は関係ないかと思いますので、つたないながら「俳句入門」のお話をさせて頂きます。
ゴルフをおやりの方も多いかと思いますが、言ってみればゴルフ愛好のじいさんがゴルフとはという話をするようなものですので、しばらくご我慢のほどお願い申します。ゴルフは体力がいりますが、俳句は足腰動かなくなってもよいよいでもできるのが強みでしょうか。
 
世界を眺めてもこんなに国民に広がっている文芸はありません。それほど俳句はだれにでも作ることの出来るやさしい親しみやすい文芸といえます。俳句人口は、一説には、七百万とも言われますが、人口調査から「小説、詩、などの文芸創作」をしている人が四00万人強といわれます。おおむねこの六〜七割が俳句愛好者という捉え方もあります。現在日本中に800以上もある俳句結社の中には、会員数(発行部数)2〜3万人の『ホトトギス』なんてのもありますが、その辺に転がっているのが俳句愛好者です。俳句は、多くの人に親しまれている「日本の詩歌の伝統的なリズムで作られた短詩」ということができます。
 
さっきのお噺の続きですが、
「八つあんもやってみなさい」
「どうやるの」
「おまり考えず構えず自然に思ったことや見たままを言えば良いんだ。五七五で『なになにや何が何して何とやら』と言えば良いんですよ」
「そのまま言えば良いんだね。『朝起きて顔を洗って飯を食う』、と言うのは・・・」
「当たり前すぎるな。それに俳句には季節、季題が無いと駄目。「句を作らんと土手にきたれば花筏」きれいだろ」
「季題(きらい)ね〜、それ好きにならないとダメ?」
「題を出すからやってごらん。『春雨』なんかどうだ、出来るかい」
「『船底をガリガリかじる春の鮫』」
「初雪でどうだ」、
「『初雪や方々の屋根が白くなる』。どうだ見たままだ」、
「見たまま過ぎる。色気が無いとな」、
「『初雪や小便すると黄色くポツポツ穴が開く』どうだ。」、
「『初雪や瓦の鬼も薄化粧』、『初雪やせめて雀の三里まで』綺麗だろ、三里というのは足三里(ひざ下)という灸点だな、初雪はうっすらがいいね」
「『初雪やキリンの首の潜るまで』『初雪やこれが塩なら金儲け』」
「ダメだよ。風流なんだから金から離れて『猿飛んでひと枝青し峰の松』、雪と言わなくても分かるだろ」。
 
俳句の楽しみは、人の作品を「読む」楽しみと、自分で「詠む」楽しみがありますが、俳句は、「詠む(作る)」楽しさのほうがずっと大きなものです。
日ごろお作りになっている方もおられると思いますが、俳句の楽しみを広める活動のひとつとご一緒していただければと思います「花の雲鐘は上野か浅草か」この、「はるかに見渡せば、雲と見まがうほどの桜の花の盛り、そこに響く鐘の音。」という誰もが心に思い描くことができる、シンプルで共感しやすい情景・心情を美しく切り取ることが、俳句の醍醐味です。
俳句もほかの文芸と一緒で「自己表現」という人間にとって大切な要求から出発しているのですが、日常のなかから心を動かされたもの、感動を書き留めておきたいという欲求は、俳句という、五七五の音数律という形を通すことで、時に、人と共感し合ったり、新たに感動をひき起こすスイッチとなったりします。
 
俳句の「作句の条件」は、たった三つです。
 峺渕係沺廚硫賛律にする。◆峙┯譟廚鯑れる。「切れ」がある。

俳句は、歴史的には、「俳諧の連歌」の発句から生まれました。連歌は、上の句にほかの人が下の句をつけて一首詠むことから始まりました。鎖連歌から発生した俳諧の連歌は、連歌の形式を生かしつつ俗語や漢語・卑俗、滑稽の情を盛りこんだものですが、この俳諧連歌の始まりの第一句(発句)、客の挨拶の句が独立したものです。発句の「五七五」のみを「座」の文芸から個人の文芸へ独立させることで明治時代に成立したのが俳句です。それゆえ発句の約束(挨拶・「切れ()・季語」)を引き継いでいます。↓の条件がないのが川柳です。
その辺りを意識しつつ、早速、俳句を詠んでみましょう。話を聞きながらお考えいただければと思います。
 
一、席題(今日のテーマ)は「浅草」です。
「浅草+季語+○○」。
浅草を想起できる名や行事・情景を思い浮かべてください。 
 
二、「句切れ」について
俳句には「切れ」があります。発句に独立性(強く言い切ること)が求められることから、切れが生まれました。わかりやすく言うと「どこに句読点を打つべきか」です。この「切れ」は、「語と語の衝突による展開」、「場面転換や完結独立感」「余韻余情」など様々の効果を期待するものです。
この「切れ」については、一例上げて説明しますと
闇の夜は/ 吉原ばかり/ 月夜哉 其角 」
この句は、、「不夜城」吉原の明るさを詠んだもので、「闇の夜は」で切って読み、闇夜でも吉原は月夜のようである、句と言われます。しかし、「闇の夜は吉原ばかり」で切って読むと、この世は月夜だが、吉原は暗黒の夜だと意味が逆になります。切れがスイッチのような働きをして、どこで切るかによって、江戸の町全体が闇に沈んだり、逆に月に照らされたりします
「しんだいしゃたのむ」ですね。
古句に「やみの夜は松原ばかり月夜かな」という句があり、これは明らかに二句切れです。世間は月夜で明るいのに、松原ばかりは繁った枝で中はやみの夜という解釈で、その反対は成り立たちません。この句をふまえて詠んだともいわれています。其角はその「切れ」を変えて意味をそっくり逆転してみせたのでしょう。なお、「助六由縁江戸桜」では、揚巻が花道から登場する時に、「やみの夜に吉原ばかり月夜かな」と「に」で唄われています。円生の「文七元結」も「に」で語られています。
さて、その「切れ」は、「切字」によって示されもします。「きれじ」といってもお尻の話ではありません。切れ字の主なものが、「や」「かな」「けり」などです。「古池や蛙飛び込む水の音」この「古池や」の「や」が強調であり、映像的に、はっきり古い池のイメージを確立させ提示します。
先程の句も「闇の夜や吉原ばかり月夜哉」ならば、闇夜と月夜がはっきり示されて揺れはありません。しかし、これは「や」と「かな」と強調されるもの二つ並べられて「闇夜」と「月夜」どっちだと、二つがぶつかり殺し合っています。俳句でこのように切れ字二つは最も嫌われます。作句の時ご注意ください。(なかには「降る雪や明治は遠くなりにけり(中村草田男)」のような名句もありますが、難しい表現法です。)
 
三、「季語」について
季語とは、春、夏、秋、冬、新年の5つの季節をあらわす言葉です。
季語は3つの特性を持っていると言われます。・季節感・連想力・象徴力です。
今回は、春の代表的な季語を裏側に上げておきますが、季語がどう生きるかについて少し見てみます。
「浅草のひとへ届ける」と五七を詠みました。これに、「紅椿・花菫・チューリップ・桜餅()」とつけてみます。チューリップと桜餅ではやる人と貰う人のイメージがそれぞれに浮かんでくると思いますが、その違いは季語の力によるものと言えます。今度は「赤い薔薇(初夏)」あるいは「枯尾花()」と続けてみます。季語が「チューリップ」だと若々しい恋愛を想わせる句なのに、季語を「赤い薔薇」に変えただけで、その恋愛がなまめかしさを持ち始め、読みようによっては、不倫の匂いまでして来ます。そして「枯尾花」になると、恋愛を超えて、届けたい相手は、もうこの世にいないようにも感じてしまいます。
このように、同じ句でも、それに添わせた季語が変われば、まったく別の句になってしまうのです。
 
句会で「家族」の席題で、ワンパターンの句が並びました
久々に家族の揃ふ蜜柑山
久々に家族揃ふやとぜう鍋
季語と言うものは、ただ単に季節を表すだけでなく、その本意を持って描写と響き合い、作者の伝えきれない想いを表現する力を備えているのです。
描写と季語の取り合わせにおいて、その二つが近すぎてイメージの広がりの無いものを「つきすぎ」、逆に、あまりにも遠すぎてイメージが結びつかないものを「離れすぎ」と言い、そうならないように注意して作ります。
(季語は原則「一句に一つ」です。「季重なり」といって季語が二つ以上入ることは、一方が主であることが明らかなときなどを除いて、通常これを嫌います。 ただし季語としてでなく使うこともあります。季語が二つあるとき季節が違うのは「季違い」といって特に嫌われます。脂の乗ったトロに酢でしめたコハダをわざわざ重ねて握った寿司みたいになってしまいます。もちろん「蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ(芭蕉)」のように春(蛤)と秋の季語があっても「蛤」は季語としては扱われていません。「目には青葉山ほととぎす初鰹(素堂)」という句がありますが、この三つ季語が並ぶのは例外中の例外の名句でしょう。)
 
四、俳句の基本
「平明にして余韻のある句」が良いと説かれます(高浜虚子)。平明とは、わかりやすくはっきりしていることです。また、俳句は物や風景をよく観察して、そのありさまを絵のように17文字の中に写し取る文芸だとも言われます。
何気無い日常のひとこまを、携帯やスマホのカメラなどで写すスナップ写真だと思って、俳句を作ってみるのもひとつの方法です。
注意点としまして、「何がどうしてどうなった」とすべてを言ってしまったり、描写と季語がツキスギたり、動詞の多い句などは、どれも説明的で「くどい句」ということで、一般に嫌われます。そのため、「すべては言わない」「描写と季語はほどよく離す」「一句一動詞」というのがまずは俳句の基本になると考えるといいと思います。詠みかたに「取り合わせ」・「ニ物衝撃」と「一物仕立て」の詠み方があります。「花の雲鐘は上野か浅草か」と「春の海終日のたりのたり哉」の読み方です。
写生の仕方を、三つほど示します。
『枯菊を焚くや茎より水蒸気』これは、細部の客観写生句、
『人ごみの中に人垣べたら市』、ちょっとテクニックを使った伝統的な写生句、
『冬の花水の色してゐたりけり』こちらは暗喩をそぎ落とした内面写生句です。
 
五 句作に必要なものは、鉛筆と句帳に、歳時記(と国語辞書)だけです。
遠くに行くこともありません。写真を撮る気になってカメラを持つように、俳句を作る気になって句帳を持って浅草の町を散策すると見慣れている浅草に新しい発見があると思います。
 
俳句を詠む楽しさ
決まったフレーム(五七五)にひとつ世界を表現する自己表現です。
・俳句は座の文芸です。句会・吟行などで仲間と詠み合う、これがさらなる楽しみになります。
「句会」などと言うと、正月にある宮中の歌会始のような紋付きハカマや着物姿で正座して並ぶようなかたぐるしいものと思われてるかも知れませんが、テーブル席にぎゅうぎゅう詰めに座り、使用済みのコピー用紙で作った短冊を回し、選句用紙と一緒にお酒やおつまみが回って来るような座で、俳句を愛する仲間達と熱く俳句を作るというのが本来の『座』の姿のような気がします。自然体で、言葉で遊ぶ楽しさが味わえます。
「吟行」も同じ所に行って句を詠みあうといろいろの面で新しい発見があってこれも楽しいものです。
 
「俳句は挨拶なり。」と言いますが、俳句の挨拶という事と連句から生まれたということの一例として、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、最上川のほとりの句会に招かれたときの「発句」と「脇句」を見てみます。(高野亭跡に芭蕉翁真蹟歌仙の初折の表六句の句碑あり)
・発句 さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉()
・脇句  岸にほたるを繋ぐ舟杭 一栄(主人)
この句会が開かれたのは、六月上旬の暑い時期で、芭蕉は旅の疲れを癒してくれた最上川の涼しさに感謝し、この景色を一望できるお宅を賛美しています。これに対して、主人は「いやいや我が家など、蛍を繋ぐための舟杭にすぎませんよ」と謙遜して答えています。蛍とは芭蕉のことをでしょう、解釈すると、「江戸の巨匠・芭蕉翁をお招きするためにご用意した家ですが」と、芭蕉を歓迎する意味になります。たった、これだけの短い言葉のやりとりの中に、これだけの暗喩と意味を盛り込むとは、こののやりとりは、さすがです。
この発句は、松尾芭蕉の『奥の細道』に掲載されている「五月雨をあつめて早し最上川」の原形です。芭蕉はこの後、最上川の水流の激しさは涼しいなどと呑気なことを言っていられるような状況ではなく、「早し」の方が適していると、「奥の細道」に掲載する際には改訂して『五月雨をあつめて早し最上川』の形の名句になりました。この名句も最初は、挨拶として作られたものだったのです。
喜びにつけ悲しみにつけての慶弔贈答の句が詠まれるのもこの挨拶という「発句」の性格によっています。
(なお、発句に対して最後の句は「挙句(あげく)」と言います。「挙げ句の果て」という慣用句がここからうまれています。)
 
川柳について、
同じ五七五の川柳というのがありますが、これは、連句の「平句・前句付」が独立して文芸となったものです。
「付句」とは、七七の題に五七五を付ける「前句付け」をいいます。
「めでたくもありめでたくもなし」に「門松は冥土の旅の一里塚」、
「切りたくもあり切りたくもなし」に「泥棒を捕らえてみれば我が子なり」。
 
終わりに、お噺を一つ。
「翁が山道を歩いていたら、月見の宴があった。村人が『爺さんも出来るかい』と言ったがムッとするところを『三ヶ月の・・・』と書いた。この爺さんもうろくしているな『今夜は十五夜なのに』と言う顔をしたが続けてさらさらと書いた、『・・・頃より待ちし今宵かな』」
これ、芭蕉とか一茶とかの逸話と言いますが・・どんなもんでしょう。
 
本日は、ご清聴ありがとうございました。
お帰りの際、どうぞ一句お作りの上ご提出頂ければと存じます。
 
| 竹馬屋 | 俳句 | 12:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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